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見えない難民

by ?ディビッド・ダーグ/ヨルダン発

シリア難民

シリア難民の親子

ヨルダン北部の砂漠は、住むにはまったく適さない土地です。どの方向を見ても、岩と砂ばかりの丘がうねうねと続いています。身を隠すための木陰はなく、水を見つけるのはほとんど不可能です。今、そんな砂漠に隣国のシリアから流入してきた数千人の難民家族が暮らしています。

難民の多くは、衣類だけを背負って、内戦の続くシリアから徒歩で逃げてきています。シリア国内では、人目につかないように夜間に移動するので、脱出には何日もかかります。ヨルダンに入った難民の多くは、ザタリ難民キャンプに落ち着きす。ザタリにはすでに14万5000人の難民が暮らしていますが、その人数は今も増え続けています。ザタリのような公式キャンプのほかに、非公式キャンプで暮らす人々もいます。
ヨルダン赤新月社マフラク支部のアリ・ムラティス支部長は、「難民登録を嫌って隠れている人々が大勢いるのです」と言います。こうした人々は、公式の難民キャンプに登録してしまうと、いつか報復されるのではないかと恐れているのだそうです。

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アリと私は、非公式キャンプや廃墟で隠れて暮らす難民家族を探しに出かけました。私たちは、荒涼とした風景の中をくねくねと続く人通りのない道を車で進んでいきました。ときどき、コンクリート製のこじんまりした家屋が数軒あり、ヒツジを数頭飼っている、小さな村が見えました。
シリア危機以前から、こうした村に住むヨルダン人は貧しく、多くの家族がぎりぎりの暮らしをしていました。今では、シリアからの難民が、村の経済の重荷になっています。食料も、水も、避難場所も全然足りないのです。

私たちが最初に立ち寄ったのは軽量ブロックでできた未完成の建物で、3家族のシリア人が住んでいました。彼らは私たちを温かく迎え入れてくれましたが、室内に家具はなく、ウレタンフォームの入った粗末なマットレスが数枚床に敷いてあるだけでした。ヤカンと小さいカップのセットだけは、1家に1つずつありました。マットレスの上で幼児を抱いていた若い母親が、私たちに微笑みかけ、座るように言ってくれました。彼らはもともとシリアのホムスという町で暮らしていましたが、内戦で家財を失い、3カ月前にヨルダンにやってきたのだそうです。

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私たちは、パスタ、レンズマメ、砂糖、油、石鹸、赤ちゃん用ウェットティシューなどの主な食品と衛生用品が入った緊急救援キットを各家族に1つずつ配布してから、支援を必要とする人々を探してさらに車を走らせました。

やがて、2つの小さな丘のふもとに隠れるようにテントが並ぶキャンプに到着しました。私たちの車の音を聞きつけた人々が、テントからゆっくりと出てきました。私たちを見て驚いた様子でした。

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私たちが食料を持ってきたという知らせはすぐにキャンプ内を伝わり、多くの人が集まってきました。彼らは口々に私に何かを訴えるのですが、みんなが同時に喋るので、通訳が追いつきません。1人の女性が自分はもう3週間もここで暮らしていると嘆くそばから男性が割り込んできて、銃で撃たれた傷痕を見せてやると言い出すような有様でした。けれども、オペレーション・ブレッシング・インターナショナル(OBI)のチームが緊急救援キットの配布を始めた途端、人々の注意は私から逸れました。各家族の代表が一列に並んで順番にキットを受け取ると、彼らは目に見えて安心した様子になりました。キャンプのリーダーによると、支援物資を届けに来たのは私たちが最初だったようです。

OBIと赤新月社は良好な協力関係を築いています。OBIは緊急援助キットの中身を提供し、アリのチームは、難民に聞き取り調査を行ってどんな物資が必要であるかを見きわめたり、物資の流れを効率よく管理したりしています。

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私たちがキャンプの人々にいちばん欲しいものを教えてほしいと言うと、全員が「毛布!」と叫びました。日中の気温は38度を超えますが、夜になると非常に寒いのだそうです。私たちは今後も彼らの力になると約束して、マフラクの町に戻りました。
今、マフラクには数千人のシリア難民がいて、廃墟に住んだり、ヨルダン人の家庭に身を寄せたりして暮らしています。ヨルダン赤新月社マフラク支部が、彼らに支援物資を配給するための臨時拠点になっています。毎日、決まった時間に女性たちが数人ずつやってきて、家族のための緊急救援キットを受け取ります。アリが立案した配給システムにより、女性たちは2週間に1度ずつ物資を受け取りにくるようになっています。

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女性たちは、喜んで話を聞かせてくれました。彼女たちは、誰かが話を聞いてくれるだけで嬉しいと言います。厚いレンズの入った眼鏡をかけて、あごに部族の刺青があるサビーンは、手を空中で左右に振りながら、ホムスにあった自宅が破壊されたときの話をしてくれました。彼女はそれから背中を指さして「2発撃たれました」と言ったので、私はびっくりしましたが、その場にいた彼女の友人たちが頷いて眉をひそめたので、それが誇張でないことがわかりました。

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ほかにも数人の女性と話をしました。親族を亡くした人もいました。ほとんどの女性が、シリアに残った親族のことを心配していました。全員が、飢えや病気、いつになったら故郷に帰れるのだろうという強い焦燥感などに苦しめられていました。

ザダは、故郷の町での戦闘が激化したので、夜のうちに2人の子供の手を引いて脱出してきたと言います。彼女たちは、今はヨルダン人ホストファミリーの家で暮らしています。ホストファミリーはザダと子供たちのために部屋を1つあけてくれましたが、食事の世話をする余裕はありません。ザダにできる仕事はなく、食料の配給がなかったらどうすればよいかわからなかったと言います。

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私は、物資を受け取った女性たちが赤新月社のビルを出て帰途につくのをバルコニーから見ていました。片手に支援物資が入った大きな袋を持ち、もう片方の手で子供を連れている女性もいました。彼女たちが帰っていくのは、がらんとした部屋や、窓のない地下室や、テントです。そこは、彼女たちの家ではありません。女性たちやその家族は、私が砂漠で出会った人々と同じように、シリア危機を逃れてきた「見えない難民」です。彼らは、赤新月社やオペレーション・ブレッシングのような少数の組織の支援によって命をつないでいます。

翌日、私たちはバンいっぱいに毛布を積んで砂漠のキャンプに戻りました。人々は、私たちがこんなに早く戻ってきたことに驚き、自分たちの願いが聞き入れられたことにもっと驚いていました。

彼らは見えない難民ですが、私たちが彼らを忘れることはありません。

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