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生き埋め5時間…命支えた聖書の言葉【熊本地震から5年】

2度の震度7を観測し、災害関連死を含め276人が死亡した熊本地震から明日で5年を迎えます。
熊本県益城町の自宅が倒壊し、5時間下敷きになりながら、奇跡的に助け出されたある一人の女性がいました。
保育士として働き、災害支援のボランティアとしても活動している豊世美文(とよせみふみ)さんです。
以前オペレーション・ブレッシング・ジャパンが九州北部豪雨で支援活動に入った際、現場でご一緒したことがきっかけでこの度お話を伺うことができました。

大災害から5年という節目に故郷に対して想うこと、そして発災当時、絶望的な状況の中で命を繋いだものは一体なんだったのでしょう。今回はそんな美文さんのストーリーをご紹介します。

豊世美文さん(熊本東聖書キリスト教会にて)

2016年4月14日、熊本県益城町で震度7の激しい揺れを観測し、市内にある熊本東聖書キリスト教会の会堂が全壊。牧師の娘である美文さんは、左手を挟まれた状態であおむけに倒れ、ドアの下敷きなりました。そこへ何度も余震が襲い掛かります。

美文さんの教会兼自宅。二階がそのまま崩壊し押しつぶされる状況に

余震がくる毎に隙間がだんだん狭くなり、「このままだと潰される」と覚悟した美文さん。死の恐怖がよぎりましたが、突然聖書の一節が示されました。
「たとい死の影の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。」詩編23篇4節のみことばでした。

暗闇の中、右手だけは動かせたといいます。その右手で脱衣所にあったタオルを掴みました。
山登りが趣味の美文さんは、夜がふけるにつれどんどん気温が下がる中、低体温症にならないようにと首や手首を温めました。
その1時間半後、到着した救急隊による救出活動が開始。正確な場所を把握するため、「明かりが見えますか」と救助隊員が声を掛け続けました。美文さんから見えれば1回、見えなければ2回、届きにくい声の代わりに右手で懸命に壁をたたいて応え続けました。

それから3時間半後、瓦礫を切り崩す救急隊のチェーンソーがやっと美文さんの元までたどり着きました。左側にできた空間から隊員の手が伸び、担架に乗せられてそのまま救急車へ。
「よく頑張った」。駆け寄ってきた家族の顔を見て、美文さんは初めて涙があふれだしたと言います。聖書の言葉を何度も何度も声に出して、絶望的な状況の中5時間の長丁場を耐え抜きました。

懸命な救助作業によって奇跡的に一階から救出された

「今まで自分の道は自分で歩めると思い込んでいた私は、この地震を通して神様から『人生の中で頼れるお方は、ただ神様お一人である』という確信が与えられました。そして聖書のみことばこそが、私が生きていくうえですがっていくべきものだということも痛感しました。
神様は決して私を離れることはない。この真実が、何物にも代えがたい大きな力となって私を支えてくれました。」

その後、保育士の仕事に復帰した美文さん。壊滅的被害を受けた益城町は懸命な復旧作業が続き、多く存在していた仮設住宅は昨年一カ所に集約されました。やっと新阿蘇大橋も開通しましたが、復興住宅や区画整理はまだ続きます。

「仮設住宅から復興住宅に移り住めた人と移り住めなかった人とでは、生活再建のスピードも大きく異なります。
5年という歳月が経ってもなお、元の生活に戻れず葛藤している人がいるという現実を痛感しています。」

地元NPO主催の仮設住宅サロンに参加したこともある美文さんは、ハード面での復旧は進んでも、「昔のような生活とは程遠い」と語る住民の悲痛な声を多く耳にしました。
「被災した人たちに寄り添いながら、今度は自分の命をだれかのために活かしたい」という強い想いに突き動かされ、美文さんは仕事をしながら現在も災害ボランティアとして活動し続けています。

美文さんはその壮絶な体験を通して、当たり前のように受けていた自分の命、そして自分の周りの人々に深く感謝するようになりました。そして自分が住み続けてきた益城町も、ただの地元ではなく、神様の愛を語り伝える大切な存在になりました。

美文さんが送ってくださった現在の益城町の様子。今年も満開の桜が咲いた(秋津川河川公園).

「地震は本当につらく悲しい出来事でしたが、自分自身と地域に目を向ける大きな転機になりました。
あの時はたくさんのクリスチャンやボランティアの方が被災地を訪れて力を貸してくれましたが、今も支援の輪は広がり続けています。
決して離れることのない神様の愛に感謝しながら、今度は自分が周りの人々に希望を届けていきたいです。」

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