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【震災特集インタビュー】「それでも私が生きるのをやめない理由」14歳で被災した少女の悲痛な叫びを聴く

東日本大震災から今年で11年。
福島第一原発事故で突如として故郷を追われることとなった福島の住民は、この11年の間日常を取り戻すための懸命な努力を続けてきました。

自分の人生を支えていた家・仕事・学校、そして町の平和が一瞬で失われた出来事は、まさに先月のロシア侵攻によって故郷を追われたウクライナの人々にも共通するところがあります。
震災で福島の人々が抱えた苦悩や痛みを知ることは、今ウクライナの人々が直面している現実を少しでも自分の身に置き換えて考えられることに繋がるのではないでしょうか。

今回は、震災特集インタビュー第一弾として、14歳の時東日本大震災を経験した管野琴水(かんの ことみ)さんに話を聴きました。今だからこそ話せるという当時の葛藤と、その中で見つけた生きる意味について、彼女のメッセージをお届けします。

管野 琴水さん(福島県飯舘村出身。現在南相馬在住)

憧れの高校生活を奪われて

2011年3月。当時中学3年生のことみさんは、これから新しく始める高校生活に胸を膨らませていました。近所の友達といっしょに登校できるのを心待ちにしながら、同級生と別れを告げたまさに卒業式当日、東日本大震災が発生。家は幸い地震の損害を免れたものの、あこがれていた高校生活の期待は粉々に打ち砕かれました。

琴水さんが合格した高校は校舎が壊れて使い物にならず、原発事故の混乱下で高校の説明会は中止に。
原発事故発生から数日後に、村内の高校生たちへ向けた一斉説明会が行われました。

「『相双地区に残る人はサテライト校に通うこと、そうでなければ他県に転校してほしい』と言われました。
どの学校も半数以上の生徒が転校してしまって…。
私は母と地元に残ることを決めたのですが、兄の通っていた高校は完全に閉校することになりました。
転校先に指定された学校は車で二時間もかかるので、とても自宅から通うことはできず、学校近くでひとり暮らしをすることになりました。
家族、友達、知り合いがどんどんバラバラになってしまって、とても複雑な気持ちでした。」

長距離通学、詰込み授業…ストレスの連続

サテライト校で高校生活のスタートを切った琴水さんでしたが、毎日が想像を超えるストレスの連続でした。

毎朝通うはずだった高校に集まり、1~3学年がバスにぎゅうぎゅう詰めにされて、一時間かけてサテライトに通います。バス通学はなぜか海側の道を通るため、毎朝田んぼに流されてひっくり返った船や車を目にすることに。そのたびに『なぜこんな道をチョイスしたんだ』と、嫌悪感で吐き気がしたと言います。

そして、忘れもしない入学式の出来事がありました。当時一部の生徒しか知らなかったことですが、琴水さんの入学式が行われた小さな体育館は、ほんの数日前まで津波で流された人の遺体安置所だったのです。
少し前まで身元不明の遺体が並べられたその足元に、今私が立っている。その事実に、琴水さんは胸が抉られる思いがしました。

「『入学おめでとう。大変な試練を乗り越えて命ある君たちには頑張って欲しい!』と、校長先生に激励されたことに、小さな怒りを感じたことを覚えています。
多くの人たちの命が失われた場所で、未来の希望の話をするなんて!と。
それでも、『怒ったってしょうがない、非常事態なんだから』と、自分に言い聞かせました。」

複雑な心境の中、今度は頭がついていかないほどの宿題の嵐。高校スタートの遅れを取り戻すために、勉強した範囲を短期間で詰め込むという過密スケジュール。土日の宿題は100ページ近いワーク1冊に、数え切れないプリントが出され、毎日プレッシャーで泣きそうになりながら解きました。

「もう死んでしまいたい」琴水さんを救った言葉

その後、極度のストレスと不安感からパニック発作を起こし、教室に入れなくなった琴水さんは保健室登校に。
「どこまで頑張らなきゃいけないんだろう。『普通』の学校生活を送りたかっただけなのになあ…」
目まぐるしい生活環境の変化に加え、来る日も来る日も終わりが見えない勉強の課題。
当時心療内科に通っていた琴水さんは、注射のたび激痛が走るセルシン(不安・抑うつ治療薬)の副作用にも苦しみ、自分で座位を取るのも困難でした。

ある日、同級生で一番仲の良かった女の子と電話していたとき、ついポロッと本音がこぼれてしまいました。
「もう、死んでしまいたいよ」
それを聞いた時の彼女の反応が、今も忘れられません。

「その子は泣いてました。涙声で、でも強い口調ではっきりと私に言ったんです。
『命を粗末にするなら、津波で亡くなった友達にあげたかったわ!』って、説教をしてくれました。
そこでハッと我に返りました。同年代の子も、津波の影響で亡くなってたんだって。
私も静かに泣きながら、『ごめんね、ありがとう。頑張って生きる』と約束したんです。
その約束をしてかれこれ10年ほど立ちますが、今もその時の言葉と、彼女の涙で震えた声まで覚えています。」

その後琴水さんは、精神科で治療を受け、通信制の高校へ編入し、その歩みは決して平たんなものではありませんでした。しかし、あの時友達が真正面からぶつけてくれた言葉が、骨の髄まで記憶され、生きる支えになったと感じています。

「新しい世界をもっと見たいから」

現在琴水さんは、自身がもつ疾患を当事者の視点から記事にしたり、心のケアに関する問題について勉強しています。
復興コミュニティスペース内にあるsoyo cafeで、ノマドワークをすることも。
カフェをきっかけに同じカメラの趣味を持つ友達ができ、新しい世界が広がったと話してくれました。

友人と風景の写真撮影へ行くことも

「今は、生きる意味があるから生きたいと思います。
ここで出会った友達と、これから一緒にどんなことができるのか楽しみだから。
桜の咲く季節になったら、写真を撮りに行く約束もしました。
飯舘村の伊丹沢に、桜が3000本植えられた桜並木の名所があるんです。
その景色を、まだ見たことがないっていう友達に見せてあげたいと思います。」

飯舘

「飯舘復興の桜」と呼ばれる300メートルにわたる桜並木

震災によって高校生活が激変し、心の病気を負った琴水さん。
それでも周囲の友人の存在によって励まされ、その目はしっかりと未来を見据えています。

「私は吸って吐いてができなくなるまで、どんな手段を使ってでも生きたいです。
つらいことは人生からなくなりはしないけど、長い目で見たら、楽しいこともたくさんあるから。
そう信じて、友達といっしょに新しい世界をどんどん広げていきたいです。」