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それぞれの3.11

あの日・・・泥に覆われた心のふるさと、南相馬市小高町(前編)

    南相馬市小高町(前編)

    南相馬市は鹿島町・原町市・小高町の3つが合併してできました。今は小高区と呼ぶ町の中心の小高駅からのびるメインストリート、訪れたこの日は風に吹かれるままの雪しか視界に入りません。
    「やっぱり震災から人が帰ってきてないのか、車がないとどこにも行けないところなので出歩かないんですかね。」
    そう話しながら案内してくれたサトシさん(仮名)はここ小高で生まれ育ち、小高工業高校を卒業して町を離れました。
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    • 実家があったという場所は海岸まで数百メートル。
      津波で運ばれてきた泥がそのまま残り、かつて見渡すところが田んぼだったという面影は残っていません。

      satoshisan

      寒々しく泥と雲と光しかない構図の中に、生き物といえば数羽の白鳥と鴨だけ。泥に頭をつっこんで食べ物を探していましたが、私に驚いて去っていきました。
      「隣にも家があって、小さいときはその家のおじいちゃんに縁側で囲碁を教えてもらいました。ああいうのはもうなくなりましたね。」
      そういって、家のあったあたりを眺めながら、その光景が目に浮かんでいるかのような表情をしていました。

      白鳥

      「あの日、小高の家には母とムコ多糖症という難病をもつ弟がいて、仕事場にいた父は半ばあきらめていたそうです。しかし津波の危険を感じた母の機転もあり家族の命は守られました。」
      家族が再会、泥だらけになった車に乗り町から避難する途中、コンビニに立ち寄った時のこと。
      「福島ナンバーの車が泥だらけじゃないですか、いろいろむごい目にあったっていう話ありますよね・・」
      コンビニで家族を見かけた人が、トイレットペーパーや食品を買っては「大変だね」と手渡してくれたそうです。
      「人って・・ありがたいですよね。」
      そうサトシ君は言いました。
      (後編へ続く・・・)

あの日・・・泥に覆われた心のふるさと、南相馬市小高町(後編)

    閉校になった母校をたずねて

    閉校になった母校をたずねて
    「こうして懐かしむ場所が心にあるということはうれしいもんですね」
    小高で生まれ育ったサトシさん(仮名)に町を案内してもらっています。
    跡形もなくなってしまった実家から幼いときに通った小学校へ・・・南相馬市立福浦小学校は令和3年3月31日で閉校。
    発災から校舎を間借りしながら転々として、ふたたびこの校舎に戻ってくることはありませんでした。
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    • サトシさんはその歩みが刻まれた記念碑をしばらく見つめて言いました。
      「やっぱり寂しいですね、こうなっちゃったんだっていう感じです。」跡形もなくなってしまった実家から幼いときに通った小学校へ・・・南相馬市立福浦小学校は令和3年3月31日で閉校。
      発災から校舎を間借りしながら転々として、ふたたびこの校舎に戻ってくることはありませんでした。サトシさんはその歩みが刻まれた記念碑をしばらく見つめて言いました。
      「やっぱり寂しいですね、こうなっちゃったんだっていう感じです。」

      閉校になった母校をたずねて

      私たちは少し遠回りして町へ戻ることにしました。
      山側にサトシさんの母校小高工業高校があります。今は工業高校と商業高校が統合して県立小高産業技術高等学校として開校し、この日校庭では野球部の練習が続いていました。
      まだ商業高校が原町で校舎を間借りしていたとき、私たちOBJは学生を連れて東京麹町にあるドイツIT企業で研修プログラムを実施したり、工業高校の中のプレハブ校舎を間借りしていたときは、ERP-simで経営戦略ゲームや町の復興をデザインシンキングの技法を用いて描いたりしました。
      あのときの学生たちは、あのとき描いた未来図をまだ胸に抱いてくれているだろうか。

      昼になってお腹もすいてきました。
      麺類を中心に品数が数種類しかないのだが大繁盛の「双葉食堂」で もやしラーメンを食べた後、「菓詩工房わたなべ」を訪れてみることに。
      ここは震災後、原町に引っ越したのですが、元は小高町の人気ケーキ屋さんだったとのことです。
      南相馬でふたり新しく生活を始めたサトシさんと奥さんに、この店で人気のプリンを差し入れしました。
      「故郷が傷ついてもう元にもどれないとしても、こうして懐かしむ場所が心にあるということは、うれしいもんですね。」
      と最後にサトシさんは言いました。

      IT企業のプログラム研修やデザインシンキングのワークショップは2016年に実施しました。これまでの福島支援はこちらからご覧ください↓
      こちらから

暗闇の道をひたすら走りつづけ。。

暗闇の道をひたすら走りつづけ。。

当時仙台市内のレンタカー会社に勤めていた久美子さん(仮名)は、仕事で税務署を訪れている最中に地震に遭いました。

最初の地震が収まるのを待って外に出ると、向いの建物が斜めに傾いているのを目の当たりにし、「とんでもないことが起きた」と感じ言葉を失ったのを覚えています。
電車が止まったため、福島市内から通っていた同僚を家まで送ることになりました。
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  • 暗闇の道をひたすら走りつづけ。。

    道路を走っていると海側の方へ行く道が通行止めとなっていましたが、その時には大きな津波が発生したために通行止めになっていたとは知りませんでした。
    信号機は全て止まり、道路を照らす街灯もない暗闇の道を運転するのはとても怖かったです。
    しかしふと夜空を見上げると今まで見たこともない無数の星が見え「なんてきれいな星空なのだろう」と思ったことが鮮明に今でも心に残っています。
    震災当時、教会に通ってはいたものの洗礼は受けていませんでした。県外からボランティアで来られた数多くのクリスチャンの方々にレンタカーを手配するなど話をする機会がありました。今思えばクリスチャンになるきっかけがここにあったのかもしれないと思います。
    煌々とした街の灯が消えると、あんなにも綺麗な星がみえる。。
    希望の光とも思えたあの時の感情を思い出し、「次はだれかの光になれたら・・・」そう思えるようになりました。

今も続く気仙沼の人たちとの繋がり

今も続く気仙沼の人たちとの繋がり

震災当日は家で息子と一緒に過ごしていたという齋藤さんのストーリーをご紹介します。

火災が発生した気仙沼市の映像をポータブルTVで見た光景が目に焼き付いて怖かったのを覚えています。
少し地震が落ち着いてきた5月、通っていた教会のメンバーと関東からボランティアできてくれた教会関係者と共に、津波の被害が大きかった気仙沼市小泉地区にがれき撤去のボランティアに行きました。
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  • そこで、家を津波で失ったヤナガワさん(仮名)と知り合い、家があった場所のがれき撤去作業を行いました。その後「これからも繋がっていてほしい」と話してくれた時は、とても嬉しかったです。
    この出会いがきっかけとなり小泉地区の仮設住宅での支援が始まり、住民の方が復興住宅に移った後も教会から継続して訪問することになりました。

    コロナ禍で一時訪問が途絶えましたが、昨末にオペレーション・ブレッシング・ジャパンがクリスマスギビングキャンペーンのつながり支援を開催したのをきっかけに、再び気仙沼の皆さんを訪問することができました。
    久しぶりにお会いした皆さんはとても喜んでくださり、「人と人の繋がりの大切さ」を改めて感じました。

烏崎海岸

烏崎海岸

南相馬市鹿島で生まれ育った林くんが今回の道案内。
海岸をはさんで南に火力発電所があり、北には風力発電の巨大な風車がゆっくり動いている。
その間でサーファーが寒さに耐えていた。
「近くの北泉は人がいっぱいなので、こっちの波に乗る人も多いです。」
津波が押し寄せた後、その時から比べれば随分きれいになったものの、昔はもっときれいな砂浜が広がっていたという。
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  • 海岸から鹿島駅へ向かう道中の田んぼは重機で掘り返されたままになっている。
    海水をかぶったため土の中の塩分のせいで米づくりができなくなった。
    鹿島駅に着いて、線路の上に架かる歩道橋を見上げる。小学生だった林くんが自宅から学校に通うために毎日のように通った道。
    補修されずに茶色く錆ついている。

    あの日、二十歳だった彼は胃腸炎で苦しい中、家族で桜平山へ避難した。
    あの日から役場の指示に従って県外避難の生活が始まった。
    そして、あの日から友人たちともばらばらになってしまった。
    「仲の良かった友だちと離ればなれになってしまったことが一番きつかったです。」

    一人ひとりのこころのある風景も思い出も
    意味を見出すにも元に戻るにも、ゆっくりとした時間がかかる。

言葉の壁を痛感、正しい情報の見極めを

言葉の壁を痛感、正しい情報の見極めを

震災直前の3月9日がお子さんの出産予定日だったという、香港籍のキャサリンさん。

初めてのお産手伝いのために、両親が日本にきていました。
みんなでランチを食べた後、本を読みに立ち寄った書店で激しい揺れが始まったのです。
高く積まれた本棚からものすごい勢いで本が落ちてきました。
慌てて外の階段を使って降りましたが、余震も長く、ニュージーランドで一か月前に起きた地震を思い出していました。
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  • 海岸から鹿島駅へ向かう道中の田んぼは重機で掘り返されたままになっている。
    海水をかぶったため土の中の塩分のせいで米づくりができなくなった。
    鹿島駅に着いて、線路の上に架かる歩道橋を見上げる。小学生だった林くんが自宅から学校に通うために毎日のように通った道。
    補修されずに茶色く錆ついている。

    言葉の壁を痛感、正しい情報の見極めを

    とにかく状況を把握するためにラジオをつけると、流れてくるのは津波の情報ばかり。
    いつ出産が始まってもおかしくない状態だったため、とても怖くなりラジオを聞き続けることができませんでした。
    すぐ避難所に行きましたが、すでにたくさんの人で溢れかえっており、別の避難所を探しました。
    ようやく畳のある児童館で一晩過ごし、携帯のわずかな充電を使って、「私は生きている」と海外にいる残りの家族へ安否を伝えることができました。

    予定日を過ぎていたキャサリンさんは直ぐに病院へ入院できましたが、両親は日本語が使えないため、友人の家に避難させてもらいました。
    非常時の言葉の壁はとてもぶ厚く、キャサリンさんは出産以上に家族と離れていることが苦しかったそうです。
    「出産中も、入国管理局から電話が鳴りっぱなしでした。
    無事に出産することができましたが、私の心は不安でいっぱい。
    言葉が流暢に話せない外国人にとって、被災することは想像以上に大変でした。」

    言葉の壁を痛感、正しい情報の見極めを

    突発的な災害が起きた時、命を守るのに必要不可欠なのが「正しい情報」を得ることです。
    しかし、東日本大震災では、原発事故に関する様々な憶測と根拠のないデマ情報が、ネット上で蔓延しました。
    新型コロナウイルス、そして今回のウクライナの情勢に関しても、たくさんの情報がSNSやニュースにあふれ、多くの人々が「何を信じて生きていけばいいのか」と不安を抱えておられます。
    オペレーション・ブレッシング・ジャパンは、災害時外国人の方へ向けた情報発信を行いながら、団体の母体であるChristian Broadcasting Network(CBN)からの最新のウクライナ情報・現場の状況を発信しています。
    不安を煽る情報や憶測が飛び交う時こそ心を静め、正しいものを冷静に見極めて選び取る。
    その慎重な行動の重要性が、今まさに問われています。

あの日、仙台にいたことは恵みです

あの日経験したこと

「学生時代に留学し、社会人になっても仕事をするために海外で生活することが長かった」と話す幸恵さん。たまたま3月11日に、両親が住んでいる仙台にいたことは神様からの恵みだと思わざるを得ません。
あの地震があったとき、もし海外にいたら、仙台にいる両親と連絡もできず、心配でどうしようもなかっただろうと想像すると怖くなります。
3月なのに雪が降り、庭に降った雪を必死にかき集め、溶かした水をトイレに使ったりしたのを覚えています。
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  • 「両親を守らないといけない、自分も生きなきゃいけない・・」生きることに必死でした。
    そして自分が生かされていることをありがたく思い、私も何かしないといけないという思いがこみ上げてきました。

    あの日経験したこと

    ネットで見つけた宮城県石巻市の泥かきのボランティアに参加しました。泥かきはヘドロの匂いと、水に湿った泥の重さのために、とても体力がいる仕事でしたが、無我夢中でやっていましたので不思議と辛いとは思いませんでした。(ただ終わって数日たってから体の節々が筋肉痛になっていることに気づきました)

    この地震で見た多くの惨状、その中で必死に生きようとしたこと、今なお生かされていることのありがたみを痛感し、これまでいくら誘われても教会に行くことをためらっていた私が、一歩自分から前に進み、教会に行く大きなきっかけとなりました。

あの日経験したこと

あの日経験したこと

震災当日、入院をしていたという宮城県在住の 60代男性にお話を伺いました。

入院中は通っていた教会の牧師先生をはじめ、何人もの教会の方が見舞いに来てくださいました。
仙台には親しい友人が殆どいない私にとって、それは本当に大きな励ましでした。
心配してくれる人がいる、つながっている人がいる、祈ってくれる人がいるというのは、何とも心強いものです。
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  • 3月11日の出来事は、そんな平穏な日常を突き破ってやってきました。
    大きな揺れとともに体が左右に投げ出されるように感じ、これはただ事ではないと思い、直ぐにベット脇にあるテレビをつけました。
    アナウンサーは「高さ5mの津波が予想されます」と言っていたのですが、数秒後には「6m」、「8m」と次々に修正していきました。
    そして最後に「じゅ、10メートル」と叫んだときに、いつもは冷静に話をするアナウンサーが、甲高い悲痛な声をあげたことを、今でも忘れることができません。

    あの日経験したこと

    仙台市内は停電になりましたが、病院の中は自家発電に切り替えられたので、テレビをみることができました。
    しかし沿岸部の被災地にはこの声を届ける手段がありませんでした。そのことを思いだすと今も心が痛みます。

    当時を振り返ると辛い出来事がよみがえってきますが、それと同時に、自分が病院で受けた数々の知人友人からの励ましを思い出します。
    誰かが誰かを心配し、足を運んで顔を見に来てくれる。
    体調を気遣い、「元気ですか?」と声をかけてくれる。時には共に祈ってくれる。
    そのような温かみ溢れた「つながり」を、今度は自分が与える側となって生きていきたい。私のなかの3.11は、そう視点を大きく変えさせられた出来事でありました。

平和のために祈りましょう。

平和のために祈りましょう

2.24はロシアによるウクライナへの侵攻が始まり、悲しみの日として記憶されることになりました。
3.11は東日本大震災があり、この日もまた深く悲しみの記憶として心に刻まれています。

戦争や災害で苦しんでいる人々のために祈りましょう。
11年前、震災後2か月間で23の国と地域から支援の手が届きました。韓国、アメリカ、シンガポール、中国、スイス、ドイツに次いで、3月16日にはロシアから150名以上のレスキュー隊員が派遣され、その熟練した隊員たちは危険な倒壊家屋にも臆することなく入り、熱心に捜索活動を展開していました(外務省HP)。
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  • およそ人間にはどうしようもない自然の脅威を前に、国や地域を超え支援活動に取り組んでいた11年前のように、その力を武力ではなく、誰かを助けるために使ってほしいと願います。
    平和的解決のため祈ってください。
    そして平和をつくるため、今日1日、皆さんの周りで困っている人がいたら声をかけ手を差し伸べてください。
    一つ一つの小さな愛が世界平和へと続きますように。