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私が経験した最も過酷な災害

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睡眠不足、原発の脅威によるストレス、厳しい寒さ、燃料や物資の欠如、そして震災による破壊の規模、これら全ての要素が重なり、この震災は私が救援活動で関わった災害の中でも最も過酷なものです。そんな経験も、昨日私が塩釜市で現実離れした破壊された風景を目の当たりにした時に、更に悲惨なものになりました。市内の魚市場に激突し横たわる巨大なトロール漁船。住宅街の水たまりに横たわる死んだ魚。ぐにゃっと曲がった街灯にまとわりついた漁網とブイ。これらは全てこの場所で非常に恐ろしい事が起こった証拠でした。

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塩釜は漁業の街であり、マグロ漁と海藻・牡蠣の養殖の産業に大きく依存しています。悲しいことにその産業は破壊されてしまいました。2004年の津波後のアチェがそうであったように、こういった致命的な津波の後に最も苦しむのは漁村です。市内の高台にある学校の教室に住む、津波によって家を破壊された250人の避難者の世話をしていたササキ・リュウジさんというボランティアの方がいます。地震が起こった時、リュウジさんは急いで彼の祖母を迎えに行き、高台へと向かいました。

リュウジさんによると、多くの人々が高台に一度避難した後、大切な物を忘れたのを思い出し、取りに戻り津波と残骸の壁に飲み込まれたとこのとでした。呆然自失の住民は徐々に自分達の家屋を見るために自宅のあった場所に戻っています。貴重品や使えそうな物を探して自分の家の残骸をふるいわけている住人もいました。残念なことに、ほとんどの物は泥に覆われていました。残骸の山の近くには「死の匂い」がしていました。非常に多くの亡くなった方の捜索がまだ行なわれていない状態です。市の職員は、道路へアクセスできるように、一部の残骸の撤去を始めていました。所有者が戻ってきた時のために、市の職員の方が家の残骸の隣に骨董品や貴重品を並べているところもありました。

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私たちは学校の建物内に設置された避難所をみつけました。被災者の家族が教室で生活をし、床に直接毛布を敷いて寝ています。学校の児童は、地震が起こった時に避難したとのことで、教室には避難家族が持ってきた数少ない所持品と共に、ランドセルがそのまま残っていました。

学校の外では、避難家族の何人かが金属の缶で木を燃やして暖をとっていました。これは電気や燃料のネットワークが普及している日本では、非常に珍しい光景とのこと。私たちがワゴン車で持ってきた食料と水は、学校のキッチンに搬入し、2時間後には250人の避難者全てに昼食として提供されていました。これは、OBIチームにとって一つの成功でした。私たちは、被災者のもとに物資を届けるために、ガソリンや物資の不足、交通渋滞、そして原発の脅威と戦ったきたのです。そしてその努力が報われたのを見て私たちは喜びました。しかし大局的な観点からは、私たちにはまだまだ多くの仕事が残っています。45万人以上の人が震災により避難しており、そのニーズは巨大なのです。
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今朝起きると、外は一面雪に覆われており、これから始まる大変な1日とは対照的な美しい1日のスタートになりました。北の方の被災地へのルートがやっと開通し、そこでは物資、特に食品が不足しているとの報告を聞きました。そこで私たちの最初の大きな課題は、食物を購入できる場所を見つけることでした。私たちは奥州市まで向かいました。奥州市にはドンの親戚が住んでおり、店で食品が買えると教えてくれたのです。


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北へ進むと、また雪が激しく降り始めました。一時は、ほぼ完全な吹雪の中をじりじりと進んでいる状態でした。原子力発電所から北へどんどん離れて行く安堵感はあったものの、一度は雪を避けて遠回りしようかとも考えました。それでもなんとか前進していると、やがて雲が晴れ、太陽が出て、雪が溶け始めました。私たちは緊急車両と救援チームの車両にのみ通行可能の主要な高速道路を使用していました。高速道路はまさにライフラインです。なぜならそこは何時間も待たずにガソリンを補給できる唯一の場所であり、他の車両はほとんどいないため、被災地間を速く移動できるのです。私たちは奥州市に到着し、大きなスーパーマーケットを見つけました。

店内は忙しく、買い物客は間違いなく一定の食品の買い占めをし始めていました。棚の多くは空でしたが、幸運な事にまだ米がかなり残っていましたので、ワゴン車に積めるだけ購入しました。2名の西洋人が買い物カートに米を全部詰め込んでいると聞いて、店長が様子を見にやって来ました。店内では、お客様1人につき商品を10品目しか購入できません、というアナウンスが流れていました。私たちはこれを予想していたので、店長に被災地通行許可証を見せ、米は自分たちのためではなく沿岸の町に持っていく事を説明しました。店長は快諾し、ワゴン車に米袋を積むのに従業員を何人か貸してくれました。

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沿岸に向かって東にドライブしていると、雪をかぶった松の木が点在した山々の美しい景色が目に飛び込んできました。それは私たちがその後に遭遇することになる惨状とは完全に対照的でした。沿岸から7キロぐらいの地点で角を曲がると、突然目の前に壊れた家屋や車が混ざった瓦礫が一面に広がりました。私たちは谷の中にいたので、それは衝撃的でした。なぜなら海と私たちの間に高い山があったらからです。この瓦礫は、約10,000人の死傷者と行方不明者がいるとされている陸前高田市からのものだったのです。

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私は2005年からオペレーション・ブレッシングで働いており、以来毎年多くの災害に対応してきました。しかし、自然災害によって荒廃した場所で作業してきた私の経験の中でも、今日私が陸前高田市で見たようなひどい破壊は、今まで見たことがありません。数多くの家が無数の木片へと姿を変えていました。わずかに立っている建物は、瓦礫に囲まれたコンクリートの構造物だけでした25メートル近くある3階建ての建物には、津波がどのくらいの高さまで上昇したかを知り得る手がかりがありました。建物の3階部分は津波が通り抜け、ある住民によると、屋上に避難していた人々の腰の位置まで水位が上がっていたとの事です!自衛隊がちょうど道路の一部をブルドーザーで整地したばかりで、高さ8メートルの瓦礫の壁を残していき、私たちはその迷路のような道を通って歩きました。瓦礫は木製の家、家庭用品、そして泥がぐちゃぐちゃに混ざったものでした。そしてその中には、未だ数千の遺体が行方不明のままなのです。

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生存者は現在この地域の50ヶ所の異なる避難所で生活しています。私たちが訪れたのは、1000人以上の人々が生活していた学校の避難所で、大部分の人は講堂で寝泊まりしていました。私たちが中に入ると、その避難所で生活している人の名簿が掲示板に貼ってありました。

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不安気な住民達は、家族や親戚がまだ生きているのではないかという希望を持ちながら、避難所の名簿に目を通していました。多くの人が泣いていました。一部の人々は行方不明の家族の写真を掲示板に貼っていました。ある写真は、いたずらっぽい笑顔のおさげの少女でした。その写真はたぶん瓦礫の中から回収したのでしょう、破けて泥だらけでした。

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私たちが米を持って来た事を告げると、避難所のリーダー・チームはとても感謝してくれました。彼らは、この避難所で生活している住民1,000人の他に、食物のない200人の地元の人にも食事を供給しているのです。その米は、被災者にとって物理的なメリットになるだけでなく、精神的にも喜ばれるとのことでした。今までこの避難所には、非常に限られた量のパンしかなく、これは何十年も1日3食ご飯を食べてきた非常に空腹な高齢者にとっては大変な状況でした。私たちは、この避難所が最も必要としている物資を供給することに成功し、彼らはとても喜んでいました。ここ2日間、オペレーション・ブレッシングのチームは、数々の不利な条件にも拘らず、1500人を超える人々に食糧と水を届けられました。今夜私たちは奥州市に戻りながら、明日の計画をたてています。
灯油の需要はとても大きいです。現在気温はマイナス5度で、避難所の暖房は灯油ストーブなのです。私たちは明日の朝一番に灯油を入手し、同日中に陸前高田市に配布するためにあらゆる努力をします。blog_110317_18blog_110317_19

一方、東北の南にいる私たちのパートナーは、もう少しで塩竈の避難所へ向けた飲料水を数トラック分確保できるとのことです。

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